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1945年(昭和20年)8月28日の戦後間もない頃、七尾湾で曳船「第二能登丸」(28トン)が機雷(水中や水上に浮かび、船が触れると爆発する爆弾)に接触、爆沈し、住民28人が犠牲となった海難事故のことです。
戦時中の1945年(昭和20年)5月25日から終戦までの間に、米軍は七尾湾内に約440個もの機雷を投下し、残されている状態でした。
1945年(昭和20年)8月28日、第二能登丸は七尾港の矢田新埠頭を出て能登島に向かって出航しました。被害者らの旦那寺の過去帳に「七尾埠頭に軍需品荷揚人夫として勤労せるも帰途能登丸に送られて触雷せるもの」と記録があり、帰宅する勤労動員の男女、復員者その他の便乗者が多数乗船していました。
船は矢田新埠頭から能登島の久美で人を下ろし、三室、東島(野崎、日出ケ島など)へ向かうことになっていました。
機雷による触雷事故も度々あったため、第二能登丸も機雷を避けるために遠まわりをし、七尾へ戻るようにして寺島沖へ向いました。
その後、寺島沖で、第二能登丸は機雷に触れ、爆発とともに40メートルの水柱があがり、28人の死者が出ました。
当時は米軍占領下であったこともあり、事件のことは新聞報道されませんでした。
事件から38年後の1983年(昭和55年)、石川県教職員組合七尾支部が始めた聞き取り調査によって、事件のあらましが明らかになりました。
第二能登丸に関する資料はほとんど残っていません。また、事件当時のことを知る生存者も高齢となり、事件の記憶の風化が進んでいる現状です。
【出典】
1984年(昭和59年)9月、小丸山小学校で、当時6年5組の生徒達により、ジャンボ紙芝居「第二能登丸のそうなん」が制作され、11月の全校集会で発表されました。
戦争とは遠いところのもの、という感じであった子どもたちにとって、毎日のように眺めている七尾湾で大事件があったとは初耳であり、驚きでした。夏休み中の8月28日、登校日の特設授業で「地域の戦争被害」を学習した子どもたちは、9月、平和の大切さを認識しながら、ジャンボ紙芝居作りに取り組みました。
「生活の中の歴史」に目を向けて学習も積み上げられました。「第二能登丸のそうなん」に関連して、当時の七尾の様子についても知りました。憲法、沖縄、広島・長崎などの学習を踏まえながら、反戦・平和の願いをこめてつくられた紙芝居は、11月、全校集会の場で発表されました。
1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)まで、日本は戦争をしていました。15年戦争といいます。
1931年に中国の東北部で満州事変がおこり、それから中国各地へと戦争がひろがっていきました。1941年(昭和16年)にはアメリカやイギリスなどの国々と太平洋戦争を始め、いよいよ戦争がひどくなってきました。大都市には空襲で爆弾がたくさん落とされました。東京にも、大阪にも、名古屋にも、横浜、神戸、福井、富山にも。上野動物園のトンキーやワンリーやジョンたちが殺されたのもこのころのことです。
トントントン(船の音)ボッカーン
「あっ、また船が1そうしずんだ」
七尾湾ではこんなことがたびたびありました。戦争がひどくなってくると太平洋側は空襲を受けたので、日本海側の港が大切にされました。七尾港へは原料や食料が中国から運ばれていました。七尾港ではそれらを荷あげして、貨物列車につみ、太平洋側に送る仕事をしていました。
当時、七尾湾にはアメリカ軍の飛行機が落とした、機雷という爆弾がたくさんしずんでいました。そのころの新聞、北国毎日新聞には、「七尾湾には44機のB29が6回にわたって、約440個の機雷を落とした」と書いてあります。機雷というのは、爆薬をいれて海の底にしずめておき、船を爆発させる爆弾のことです。
日本へつれてこられた中国人399人も兵隊といっしょに船の荷物をおろす仕事をしていました。
この船は第二能登丸です。能登丸に乗る人は、七尾の港で働いていた人夫たちが大部分です。
「早く船が出ないかなあ」「早く家に帰りたい」という子供たちもいました。大人たちは、「まってくれ」といって荷物をかかえて走ってきました。
船長さんは、甲板に立っていました。もう少しで船は出発です。
「早く乗ってください」と船長さんはさけびました。
七尾の矢田新から第二能登丸が出発しました。この日はとても暑い日で、みんな甲板に出ていました。
「暑いですねぇ、氷いかがですか」と小石幸作さんは氷を配っています。
「イナイイナイバー」
北川とみのさんは、生まれて1カ月しかたっていない赤ちゃんをあやしています。北川さんは東京に住んでいました。でも、東京は空襲がひどいので七尾に疎開してきたのです。
岩田岩男さんは兵隊から帰って来て能登島に帰る途中でした。
「もうすぐ久美だぞ」船長が大声で言いました。
第二能登丸は矢田新を出て佐波に向かい、久美のさん橋に着きました。
「やっと着いたね」「つかれた」「暑かったわい」という声や、「わあい、わあい」という声や、うれしそうな子供の声が聞こえました。人々はホッとして急いで船からおりました。
船には、まだたくさんの人が乗っていました。野崎や鵜浦や三室の人たちです。生まれて1カ月しかたっていない赤ん坊からおとしよりまで。
「早く家へ帰りたいな」と思っていたことでしょう。この人たちは、機雷のことを心配していたのでしょうか。
第二能登丸は能登島の久美を出ました。この七尾湾では船が機雷にふれて爆発する事故がたびたびあったということです。第二能登丸も機雷をさけるためにわざわざ遠回りしました。
「ここらへんは、あぶないなあ」と機関長が言ったのを船に乗っていた鵜浦の小石さんは聞いたそうです。このへんは機雷がたくさんあるので心配して言ったのでしょう。
船は寺島おきでかじを東へきりました。その時です。
とつぜん、ドドーンという音がひびき、水柱が高く上がりました。第二能登丸が機雷にふれて爆発した音でした。その船に乗っていた人たちはどうしたでしょう。助かった北川政夫さん(野崎)は、
「爆発した瞬間はぜんぜん覚えていない。気がついた時、機雷にやられたと思った」と語っています。
第二能登丸が爆発したところにいちばん近い佐波の村では、夕ご飯の用意をしていました。ドドーンと大きな音が聞こえたので、あわてて外へ出ました。海の方を見ると、水柱が高く上がっていました。
「たいへんだ。また船が機雷にやられたぞ」とあわてて村の人に知らせ、助けの船を出しました。
佐波の人々は、「水柱が40メートルも上がったぞ」「爆発で人々が水面にたたきつけられていたのは、とても見ていられなかった」「こわかった」などと語っています。
ザブン、ザブーン。船のはへんや木のはへんが波にうちつけられます。
「助けてくれい」
悲鳴が聞こえてきます。船や木のはへんにすがりつく人。みんな助けを求めています。事故を見た佐波の人たちは、佐波じゅうの船を救助に出しました。やっとのことで木を見つけた人。木が見つからず海底にしずんだ人。船に気づかれず死んでしまった人たち。須曽の灯台守の船も助けに来ました。まだまだ生きのびたかったでしょう。
「かわいそうに・・・」とのささやき声。助かった人と亡くなった人たちが、佐波の海岸にひいてあるむしろの上に運ばれます。
運ばれた人たちの中には、ひどいやけどをしたり、かみの毛がちぢれたり、片うでをなくされたりして大けがをした人たちがたくさんいます。
亡くなられた人の中には、幼い4才の美智子ちゃん。機雷が爆発した瞬間、
「お母さあん、助けてぇー」と悲鳴をあげて死んでいったことでしょう。
「きずはいたむかい。おいしくないけれど、おかゆだよ」と近くの佐波のおばさんたちがおかゆをたいて食べさせてくれました。
「とてもおかゆがおいしい。こんなにおいしいとは思わなかったよ」
当時を思い出している女の人。30人近くも死んだ中で、この一口のおかゆのおかげで生きのびたのでしょう。
となりに男の人がむしろの上でねていました。爆発してかみがちぢれて、もうすでに死んでいました。どんな思いで死んでいったのでしょう。お母さんは悲しむでしょう。大ぜいの人が海辺にひき上げられ、むしろにならべられました。きず口のひどい人、おかゆも食べれない重傷者たちがねむっているのです。
「これは、おれの家が買うんだ」
「いや、おれの家が買うんだ」
戦争が終わった直後の品物不足のひどい時に第二能登丸が機雷にふれて爆発し、一度に28人もの死者が出たため、死んでいった人たちを入れる棺桶が手に入らず、数少ないおけを取り合ってけんかをするほどです。
やっとの思いで棺桶が手に入った人でも、死体が水に長時間つかっていたせいか、全身が水ぶくれのようにひどくふくれあがって、棺桶に入らないほどでした。
「なんまいだー、なんまいだー」また、おぼうさんは葬式です。死んだ人があまりにも多いので、おぼうさんはとってもつかれています。鵜浦では14人死んでいます。おぼうさんは町に2人しかいないので、「お願いします。お葬式をやってください」という言葉を毎日のように聞いています。2人の死体が上がってきたら、どうしたことでしょう。
「わたしの家が先に葬式をしますよ」と争いになったかもしれません。鵜浦でも野崎でも葬式が続き、村の人たちの悲しみが続きます。
「軍属にしてほしい」と鵜浦、野崎の人たちがお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。軍隊の命令で、軍隊の仕事をした人たちなのに。
「軍属にしてくれないとはひどい」「そうだ、そうだ。軍属にしてほしい」「それじゃ、勤労動員に行った人たちがかわいそうだ」「そうだ、かわいそうじゃないか」と今も言っていますが、聞き入れてもらえません。
軍隊の命令で仕事をさせられて命を落としたり、けがをした人々には、子どもも奥さんもいたのに、どうして生活しろというのでしょう。
わたしたちは、「七尾は平和だ」と思っていますが、およそ40年前には死者28人を出す大きな事件があったのです。このような事件があったのに、当時の新聞には、まったくのっていませんでした。
これをあきらかにするために七尾の先生たちが調査を始めました。NHKテレビでも、被害者や見た人たちから取材し、すこしでも七尾の人たちに知ってもらおうと、この事件のことを1984年9月3日に放送しました。
「どうやって目撃したんですか」「友だちと網の手入れをしている時、突然大きな水柱がたって火をふいてんわ」「能登丸のほかに3回ほど見とります」
このように第二能登丸の事件のほかにも、機雷の爆発がたびたびおこっていました。
七尾も平和でなかったのです。
第二能登丸でそうなんした人や戦死した人たちの慰霊碑が鵜浦町や野崎に建てられています。みなさん町にも戦争で死んだ人たちの慰霊碑があるでしょう。
いま世界のあちこちで戦争反対の声がもりあがっています。第二能登丸のような事件が二度と起きないように平和な世の中を築いていきましょう。
40年間の悲しみが、慰霊碑に深くきざまれています。