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御便殿は、明治42年(1909)に東宮殿下(後の大正天皇)が和倉行啓の際の休憩所として建てられました。場所は和倉西部丘陵の白崎山の中腹に土地を設け、寝殿風総檜造り平屋の本殿(約53坪)と控室「清涼閣」(約48坪)を新築しました。土木工事は地元民の勤労奉仕により、用材は宮内庁の配慮により木曽御料材がもちいられました。工事費は当時で10万円を要しました。また、御便殿内には縦約4尺5寸(約1.35m)、横4尺(約1.2m)の檜造りの浴槽を造り、湯元から湯を運んで入浴しました。現在、御便殿は青林寺へ、清涼閣は信行寺へと移築されて当時の面影を残す観光スポットとなっています。
(左は、屋根瓦が葺かれていない建築途中の御便殿。本殿の玄関前にはいつの時点かで唐松が植栽されている)
(左控室として使用された「清涼閣」、入口の提灯には「和歌崎」の文字が確認できる。右は弁天崎を望む景。)
(左入口に日の丸の国旗と菊の御紋が入った旗が確認できる。右には、「朝はれや鶴はなしたき浦の辺芳塢」と句が添えられている。)
大正9年6月に発行された『和倉温泉案内』(編者は端村字和倉住の中山竹蔵)によると、
「御在所(御便殿)は白崎山の半腹に新たに築かれ、総て檜の白木を以て資し、いと壮麗に造られました。先づ大緑門から御玄関に登れば右側に古代青磁の大花瓶に這柏(はいびゃく)と菊花を挿し、其根に古銅の水注を配置してありました。上段御座所は十八畳室花莚の上に絨氈(カーペット)を敷詰め、御椅子・卓・御帽子台・御釼台を備へ、御卓には緞子(どんす)の織物を懸け、金線銀絛燦然として光を放つていました。東北は海に面し遠近の風景は絶佳で、風趣最も深然を極めているのです。御食堂に充てある十二畳の日本室は構造雅致(がち)を極めて床間に光琳筆の三幅対を掲げ、配するに古色春日帆、高麗青磁の香炉(こうろ)香盒(こうごう)を以てし、尚ほ日本三景の高蒔絵硯箱及文台を添へてありました。此の一室は高麗塁雲繝縁り(こうらいるいうんげんべり)の茣蓙を敷いて緞子及綸子(りんず)の御褥(しとね)を供へ、切竹の菊の挿花を飾り、椽(縁ヵ)側に盆栽を列ね、和倉全景および不二(富士ヵ)三保松原の盆石を配してありました。別に湯殿を建設して悉く檜材を以て造営し、周囲は九尺四方、浴槽は四尺五寸、最も清潔を極め衛生に適せしめてありました。ここは御入浴に供せんが為め特に造築したものであります。」と当時の様子を伝えています。