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旧中島小学校は、明治6年(1873)8月29日に橋本与三平宅を校舎として創立されました。これに先立ち、明治5年の学制に伴う学校開設では、中島地域の児童は明治6年1月18日に田鶴浜村が開設した「第十六区田鶴浜区学校」へ通学することになりました。田鶴浜村までの距離が遠いため、中島村には「分課」が設置されました。田鶴浜区学校では福岡某教授、助教授野村健三、小木小次郎(後の長連豪)、橋本次六等が教鞭をとり、60日あまりで入学生が倍増したため、急遽小林庄平、中島健次郎の2人を増員しました。中島村出身の橋本次六は、自分の村に学校がないことを遺憾に思い、有志と共に学校設置を石川県へ請願して第十六大区学校中島分校の設立を実現させました。当時の学校には、教師が5名、児童生徒は男子120名でした。通学区域は塩津村から横見村までで、釶打村を除く29ヶ村と広範囲にわたっていました。翌7年の1月には区学校から分離して「中島小学校」と改称しました。
また、明治6年2月5日、石川県権令内田政風は小学校設立にあたって論告し、同時に女児の就学についても布達しました。これを受けて当時の鹿島郡内には七尾町女児学校と中島女児村落小学校が設立されました。中島女児村落小学校は中島村の真宗大谷派蓮浄寺住職の江尻静含が自坊を学校として開設しました。設立当時の児童生徒数は40名、教員は3名で、うち一人は蓮浄寺住職の妻江尻くにいでした。
明治7年1月に中島小学校から分離して笠師村に笠師小が設置されました。7月には外村に小学校が設置され、横見・田岸・外・小牧・深浦の5村が分離しました。さらに、明治9年には瀬嵐村にも蘭秀小が開設され、学校数が増加しました。また、明治25年(1892)4月には熊木村が分離し、尋常科中島小並びに簡易科中島小を廃止して「中島尋常小学校」が設置されました。明治33年4月には高等科を併置して「中島尋常高等小学校」と改称しました。昭和16年4月からは中島国民学校となり、終戦後の昭和22年9月から中島村立中島小学校と熊木村立熊木小学校を統合して中島村熊木村組合立熊木小学校が設立されました。
写真:(上)加賀藩12代藩主前田斉泰揮毫額
(中)明治6年中島小学校命名証
(下)明治7年女児村落小学校命名証(蓮浄寺所蔵)
写真:明治16年文部省三等奨励品目録
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